遺書。

死ぬまで生きる。その記録です。毎日、午後9時更新。

無理解は無神経。

 今日は訪問看護が来た。昨日、苦しくて、訪問看護に何度も電話をしたのは既述のとおり。それについて「苦しいからって電話をしてくるのは何か違うんと思うんですよね」と言われる。礼を言ったことも「違う」のだそうだ。

 1時間、お説教。時には、圧力を掛けるために睨み付けたまま10分の沈黙も交える。私は不快になりながらも、あぁ、こういう人がパワハラとかに長けているだよなぁと、パワハラなども経験しているから冷めて見ていたけれど、不快で食欲がなくなった。

 このBlogの前のBlog(諸事情により非公開を余儀なくされた)で、その人は理解がないとコメントも頂いたが、焦燥感や過剰な緊張で文章どころか1文も読めないと言っても「気が紛れないなんて、みんな同じ」と言った人である。

 そこでも書いたが、私の過度の焦燥感や緊張は、明らかに母の死の前後に現れたもので、50歳にして初めて味わう、今までにない感覚である。普通の人と同じではない。それに、そこでコメントをくれた人も、病気になって初めて感じているものである。

 「みんな、苦しくても気を紛らわせる方法を見付けているんです。みんなができることができないはずがありません」というのが、その主張。「保健師さんやTwitterのDMで相手をしてくれる人にも同じことをしているのですか?」と非難される。

 百歩譲って、私や、Blogにコメントをくれた人などの苦しみは判らないとしよう。しかし、それを、ないものだとして、あたかも何も理由がないのに我が儘を言っているように非難するのは如何なものか。

 今日、本当に嫌になって食欲がなくなり、これを書いている今も何も食べていない。本当に我が儘を言っているだけなら、単に怒られたと思うだけで、ここまで不快な感情は起きないはずである。あるいは納得がいく説明があるのならともかく、私としては「脅された」という印象しかないからだろうか。